iPhoneとのレース

 けたたましいアラームとバイブレーションが熱帯夜の浅い眠りを破った。うつ伏せのまま左手を伸ばして枕元の携帯電話を取り上げ、手探てさぐりでスクリーンロックを解除してアラームを止める。毎朝繰り返している動作だが、聞き慣れた音ではなかったような気がした。

 首をめぐらせて薄目をあけ、左手の中の携帯電話を見る。画面上部のステータスバーが示す時間は午前四時。睡眠を破ったのは目覚ましではなく「緊急」のメッセージだ。昨年末のアップデートで重要度を判断する精度が上がったことになってはいるが、鵜呑うのみにしてせっかくの睡眠を捨てるのはもったいない。とはいえ、無視してしまえば不安で眠れなくなるだろう。

 仕方がない。

「メッセージ、緊急の新着メッセージを読み上げて」

 二十一世紀も半ば近く、声紋認識やオーナーの状況を推測するAI人工知能が強化されていても、音声で操作するのは独り身の特権だ。


Gene Mapperの冒頭のこの部分は小説の書き出し方など皆目検討がつかなかった頃にあの名作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」のオマージュとして書き出した部分だが、幾度も現実に追い越されたパートだ。

私がGene Mapperの初めての文章を書いたのは2011年の11月だった。その時点では、iOSのSiriは日本語に対応していなかったので、安易に「日本語に対応され始めた」ような設定で描いてしまっていた。

まさか、日本語をそれなりに解釈するエージェントの種が2012年の3月に撒かれるなんてことは想像していなかったのだ。甘かった。4月からGene Mapperの第二稿に入ったのだが、コンピューターとのコミュニケーションは全て書き直し、いくつかの具体的な記述は削除することにした。

具体的に書いてしまうと確実に追い越されそうな気がしたためだ。

そして、5月。iOS 6が発表されたときに驚いたのが「おやすみモード」だった。とても小さな改良ではあるが、この書き出しを無意味にしてしまうほど、生活を変えてしまう。慌てて、AIによる判断という飛び道具を差し挟むことになってしまった。

Apple製品に限らないが、極めて優れた小さな発明がエクスペリエンスを大きく変えていく。Gene Mapperで描いた「携帯電話」に関する記述は数年後に(おそらくはAppleの手に依って)ほとんどが実現しているだろう。

未来を生み出す技術は今も毎日開発され続けている。

設計人類

 ディスプレイの幅をほどに広げてから、解凍されたコードをオートジェネックス社のジーン・アナリティクスで開こうとすると、初めて見るアラートが表示された。部分的に日本語化されていない。滅多めったに出ないアラートなのだろう。

Gene Analyticsジーン・アナリティクスはcouldn’t detect読み込んだファイルのthe kingdom「界」を  of your opening code.判定できません

Code groups昆虫とincluding both植物のinsects and両方のplants are found.コードが見つかりました

手動でテンプレートを選んでください。

 「血液型占いから生物兵器まで」が売り文句のジーン・アナリティクスが「界」直下の大グループ、「ビコント」と「ユニコント」を混同することは考えにくい。メコン農場の連中が、発生したとかいうバッタの組織を混ぜてしまったんだろう。DNAのダイレクトシーケンスが可能になって二十年が経過したが、試料の扱いが基本なのは変わらない。まったく、雑な連中だ。

GENE MAPPER一章より

遺伝子工学によって多くの農作物が「蒸留作物じょうりゅうさくもつ」と呼ばれる人工的な植物に置き換えられている世界を描いた「Gene Mapper」だが、遺伝子工学によって生み出された人類は登場しない。舞台は2037年、まだまだ登場しないだろう……と考えていたのだ。

甘かった。

既に一ダースを超える遺伝子組み換え人類が生まれていたというニュースが、Gene Mapperの発売直前に飛び込んできていたのだ。発売直前だったが、慌てて設計人類を完全に否定するいくつかの文言を修正した。

Dozens of Genetically Modified Babies Already Born – How Will They Alter Human Species?

しかも、このレポートでも驚いているが、実験が行われたのは2001年のこのレポートによるものだ。ゲノムDNAではなくミトコンドリアDNAを修正することによって15人の健康な赤ん坊が生まれた、とある。ゲノムDNAでないとはいえ、遺伝する情報が人為的に書き換えられた人間が、もうすぐ中学生になろうかということだ。

彼ら、彼女らは(恐らく)自分がそのように生まれたことを知らされていないだろうし、親以外の周囲にも伝えられることはなかっただろう。だが、より深刻な遺伝病を回避するための治療が行われたとき、GM人間(鳥肌が立つ言いかただが……)であるという意識を持って生きる人が必ず登場するはずだ。治療を超えた何かが行われることもあるだろう。

2037年、明確な意図を持って生み出された人間はどこかに居る。そんな世界で人がどう生きていくのか、次は描いてみたい。